2010年10月31日日曜日

勉強会「渋沢栄一の3つの顔」

渋沢栄一は「日本の資本主義の父」とまで呼ばれた明治、大正時代の実業家である

しかし何故かあまり知られてない

彼は富岡製糸場、第一国立銀行(現みずほ銀行)、大阪紡績会社など500以上にも及ぶ会社の設立に関与しまさしく「Captain of Industry」である
このことは高校時代日本史を学んだ人は記憶に残っているかもしれない

しかしあんまり知られていないが、渋沢は社会貢献にも力を入れていたのだ

そして更に知られていないだろうが実は渋沢は一橋大の守護神でもあったのだ
(早稲田でいう大隈重信、慶応でいう福沢諭吉に匹敵すると断言して良い)

あと、ほとんどの人は知らないだろうが、彼は実は2度ノーベル平和賞候補者だったこともある
さらに戦後には紙幣の肖像画の有力候補として最終選考に残ったこともある
(結局「髯がある方が偽造されない」として伊藤博文が採用されたが…)

このように意外と功績が多いくせに知名度が低い渋沢栄一…

しかしビジネスと社会問題をダブルで取り組んで
かつ一橋の守護神

ここまでChoice!にピッタリな人物はいないではないか!

ってわけで今回の勉強会は渋沢栄一の「実業家として」、「社会奉仕者として」、「一橋の守護神として」の3つの顔にスポットを当てて彼の生涯に触れてみた



生い立ち
彼は1820年、現在の深谷市血洗島の農家で生まれた
我々は農家というと重い年貢でその日暮らしで…というイメージを膨らませるかもしれないが渋沢家はかなりの豪農だったのでそのイメージは当てはまらない

実際に彼はあまり農作業に精を出すことはなく、むしろ学問い傾倒しており、元服後も志士気取りで京都を過ごすなど、若干ボンボン気質があった

しかしこの裕福な環境こそが彼に学問に触れさせる余裕を与え、
後に形成する「論語とソロバン」思想に大きく貢献したのである

また、渋沢は裕福に育ったとはいえ彼も武士が農民を支配する社会には不満を抱いていた
一時は過激な尊王攘夷思想に傾いて「高崎城を乗っ取り同士を集めた後、横浜の外国人を切り殺す」ことまで企てていたのである

しかしややあって彼は一橋家に仕えることになる

そして27歳の時、一橋慶喜が将軍となり、慶喜の実弟・徳川昭武に随行
しパリ万博を見学した他、欧州諸国の実情を見聞した

この時、西洋の紙幣、銀行、株式、更には政府による貧民救済など様々な西洋の経済や福祉制度に深く感銘を受ける
またフランスの商人と軍人が対等に会話しているのを見たことも随分ショッキングだったらしく、
これら西洋での体験が後の「実業家」、「社会奉仕者」、「一橋の守護神」と3つ顔を持った渋沢を誕生させるきっかけになったのである


起業家としての顔

渋沢が西洋へ出張しているさなか、時代は明治に変わり帰国を命じられる

帰国後は大隈重信の誘いにより大蔵省に勤務し「新貨条例」、「国立銀行条例」など所制度改革を行う

しかし軍事予算の拡大を目論む大久保利通と対立し辞職
渋沢は実業家としての道を歩んでいくのである
退官後間もなく、官僚時代に設立を指導していた第一国立銀行(第一銀行、第一勧業銀行を経て、現:みずほ銀行)の頭取に就任し、以後は実業界に身を置く
また、第一国立銀行だけでなく、七十七国立銀行など多くの地方銀行設立を指導した
第一国立銀行のほか、東京ガス、東京海上火災保険、王子製紙、秩父セメント(現太平洋セメント)、帝国ホテル、秩父鉄道、京阪電気鉄道、東京証券取引所、キリンビール、サッポロビールなど、多種多様の企業の設立に関わり、その数は500以上といわれている
若い頃は過激な尊王攘夷派だったが、「外人土地所有禁止法」(1912年)に見られる日本移民排斥運動などで日米関係が悪化した際には、対日理解促進のためにアメリカの報道機関へ日本のニュースを送る通信社を立案、成功はしなかったが、これが現在の時事通信社と共同通信社の起源となったのである
渋沢が三井高福・岩崎弥太郎・安田善次郎・住友友純・古河市兵衛・大倉喜八郎などといった他の明治の財閥創始者と大きく異なる点は、「渋沢財閥」を作らなかったことにある

「私利を追わず公益を図る」との考えを、生涯に亘って貫き通し、後継者の敬三にもこれを固く戒めた。また、他の財閥当主が軒並み男爵止まりなのに対し、渋沢一人は子爵を授かっているのも、そうした公共への奉仕が早くから評価されていたためだ
なお、渋沢は財界引退後に「渋沢同族株式会社」を創設し、これを中心とする企業群が後に「渋沢財閥」と呼ばれたこともあって、他の実業家と何ら変わらないのではないかとの評価もある
しかし、これはあくまでも死後の財産争いを防止するために便宜的に持株会社化したもので、渋沢同族株式会社の保有する株は会社の株の2割以下、ほとんどの場合は数パーセントにも満たないものだった


社会奉仕者としての顔

彼は実業界の中でも最も社会活動に熱心で、東京市からの要請で養育院の院長を務めたほか、東京慈恵会、日本赤十字社、癩予防協会の設立などに携わり財団法人聖路加国際病院初代理事長、財団法人滝乃川学園初代理事長、YMCA環太平洋連絡会議の日本側議長などもした
関東大震災後の復興のためには、大震災善後会副会長となり寄付金集めなどに奔走した
また日本国際児童親善会を設立し、日本人形とアメリカの人形(青い目の人形)を交換するなどして、交流を深めることに尽力している
1931年には中国で起こった水害のために、中華民国水災同情会会長を務め義援金を募るなどし、民間外交の先駆者としての側面もある
なお渋沢は1926年と1927年のノーベル平和賞の候補にもなっている

道徳経済合一説
大正5年(1916年)に『論語と算盤』を著し、「道徳経済合一説」という理念を打ち出した
幼少期に学んだ『論語』を拠り所に倫理と利益の両立を掲げ、
経済を発展させ、利益を独占するのではなく、国全体を豊かにする為に、富は全体で共有するものとして社会に還元することを説くと同時に自身にも心がけた
『論語と算盤』にはその理念が端的に次のように述べられている
「富をなす根源は何かと言えば、仁義道徳。正しい道理の富でなければ、その富は完全に永続することができぬ」
そして、道徳と離れた欺瞞、不道徳、権謀術数的な商才は、真の商才ではないと言っている
また、同書の次の言葉には、栄一の経営哲学のエッセンスが込められている
事柄に対し如何にせば道理にかなうかをまず考え、しかしてその道理にかなったやり方をすれば国家社会の利益となるかを考え、さらにかくすれば自己のためにもなるかと考える。そう考えてみたとき、もしそれが自己のためにはならぬが、道理にもかない、国家社会をも利益するということなら、余は断然自己を捨てて、道理のあるところに従うつもりである

このように彼は独自の哲学を以て行動に及んでいたのである


一橋の守護神としての顔
「士農工商」
なんだかんだいって商人階級が一番下なのだ

あいつらは商品を左から右に流すだけで利益を得ている
けしからん

こういった考えは明治になり四民平等となった後も消えなかった

渋沢は当然この考えに反対であった

今後日本が欧米列強に対抗していくには経済や商業の知識が必須だ
さもなければ日本は欧米の市場(=植民地)になってしまう

そんな考えのもと彼は商法講習所(現一橋大学)設立、維持に尽力したのである

1875年、商法講習所が設立された当初、彼はその経営委員会就任した

その後1878年、翌年の予算が半減されることになった

このままでは商法講習所の維持はできない
そこで渋沢は各方面から寄付金を募って、何とかこの危機を切り抜けたのである
その一方で、教育組織を改編、府会の支持を得ることに成功
しかし、1881年にはわずか1票差で予算が否決されてしまった
まさに廃校の危機である
渋沢の回顧談にはこのときのことを、
「東奔西走して商法講習所存続の必要を説き、要路の大官にも会って意見を開陳し、農商務省に対しては補助金下附の建議をなし、あらゆる方法を講じて講習所を存続せしむ事に力を注いだのである」
と記してある
こうして農商務省の支援を得ることに成功した
まず、補助金をもらい、次に農商務省直轄の商業学校へ
としたのだ
補助金を引き出すために渋沢は、自ら寄付金を出して募金活動を行いました
こうした活動を通じて渋沢は商業教育の必要性を更に明確に認識するようにな
ったと推測できる


その頃の商業教育は、渋沢にいわせると「商業教育に対する社会の観念は殆ど寺子屋的で余り重きを置かれぬ有様であった」という
その打破に向けて商業教育支援に動き出したわけだが、その動機の一端には三菱財
閥の岩崎弥太郎への対抗心もあったらしい

渋沢の合本主義に対する岩崎の独立主義と経営理念や手法には大きな
差異があった
私利を追わず公利を図ることを追求した渋沢は、生涯にわたって三菱批判を続ける

ちなみに、商法講習所の予算が半減された1879年に岩崎弥太郎は、東京府知事に商法講習所を三菱商業学校と合体させるべく、願い書を提出
これに対して渋沢は、
「教育の事は一家の専有ではない。公的性質を帯びねばな
らぬものである」(青淵百話)
と猛反発している

また岩崎と渋沢は一度だけ直接会ったことがあるが、後の歴史家たちはこの対談を
「三国志の曹操と劉備玄徳が会ったようなもの」
「項羽と劉邦の対談」
などと比喩しているのだ

このことからも両者がいかに対立していたかが覗える


渋沢は商法講習所における卒業式での講話は、1885年から1920年までに15回に及んでいる
内容は、既往を顧み、現状について語り、商業界に出ていく卒業生を激励するという姿勢で一貫しており、中心となる話題は時代の推移に伴って変化している

その要旨は、『竜門雑誌』はもちろん、『教育時論』をはじめジャーナリズム誌にも掲載されるほど、注目を集めた

1900年の講話では、日本の商業とその教育の発達を跡づけた後に、
「十分なる学問を修め十分なる知識を蓄えて此の商業界を料理して貰ひたい」
と述べている

翌年には、専攻部の卒業生に商業学士の称号が授与されたことを、工学士や農学士と対等の位置に高められたと喜んだ

一方で、文部大臣が祝辞をすましてそそくさと退席したことを、
「商業を余り重んじない証拠ではないかと思います」
と批判したりもした



高等商業学校では、文部省がらみの構内紛争が多発していた

その背景には、文部省の恣意的人事があったと中村政則(『一橋大学学制史資料』第2巻)は考えている
文部省が東京高等商業学校(「商法講習所)改め)を軽く見て天下り人事の対象校にしていたふしがあるというのだ
さらに学内外で商業教育をめぐる理念の対立があった
「実学の系譜」(前垂派)と「基礎的な学術研究の系譜」(書生派)の対立である
こうした対立が先鋭化するたびに、渋沢は求められて調停に乗り出す

1898年、東京帝国大学書記官のが校長になると学生は、
「商業教育を軽視すること甚だしい。よりによって競争対照の帝大の一書記官を校長にするとは」
と猛反発、なんと卒業式をボイコットしたのだ
渋沢は同窓会の要請を受けて事態の収拾に乗り出した
学生、同窓会、当局者など関係者の話を聞き、説得をし、円満な終局を図ったのであった

また1908~1909年には、両年の干支である申と酉にちなんで「申酉事件」と呼ばれる事件が発生する
一橋リベラリズムの源流と目される事件で、処理を誤れば廃校の可能性もあった

発端は1907年に商科大学設置建議案が衆議院を通過したことである
東京高等商業学校としては専攻部を独立させて商科大学にすることを期待していたにもかかわらず、文部省は東京帝国大学法科大学を政治学科と経済学科の2学科とすることで対処
さらに5月には、東京高等商業学校の専攻部廃止の省令を発する
これに抗して学生は全員総退学を決議し、4教授は辞表を提出、同窓会は意見書を公表するなど、文部省との対立は一触即発状況に陥ったのだ

調停に動いたのは、渋沢を代表とする商議委員、東京・横浜・大阪・京都・神戸の5商業会議所委員、父兄保証人の3団体だ
3団体の代表3人は学生に対して、
「その主義主張を3団体に一任すること」
「学生は学園に復帰すること」
この2点を懇諭することで、ようやく事態を収拾させた
渋沢は、「私は其時に真に涙を流して懇談した」という


1910年代、大学昇格運動が展開する一方、東京高等商業学校が帝国大学に合併される危機が迫る
しかし渋沢は強硬に反対し
「商業大学設備に関する方針として、之を現行帝国大学内に併置するは、我国商業教育の為亦絶対反対なり」と述べている

それほどまでに帝国大学との合併を避けようとし
た理由として3つの理由が考えらる
その第一は、帝大が実業を軽視していたからだ
明治10年代に起きた帝大生の民間企業就職拒否事件以来、渋沢は帝大が官界に卒業生を送り出すための教育をしていることを批判してきた

第二は、帝大が商業を軽視したこと
帝大は、法・医・工・文・理・農の6分科大学に商を加えることに抵抗した
渋沢は商業教育の地位がほかより下位に置かれていることに対する批判を繰り返している
第三は、帝大が学閥を形成して権力を掌握していることに対しての批判だ
自らは閥をつくらないと宣言していた渋沢らしい批判だ


このように渋沢は一橋大学に惜しみない援助をたゆまず続けてきたのだ

だが理由は何だったのだろうか
彼の友人でもある大隈重信は、私利私欲ではなく公利公益に生きた渋沢の生涯を「公生涯」と称している
渋沢の理想は、日本商人の自働的進歩によって商業社会の進歩を高め、国際協調のもとで日本の富国を図り国民の利益を増大させることであった
当然、その経済社会をリードする商業界の将帥づくりは、渋沢にとって重要な課だったといえる
実際に一橋大学のみならず、東京女学館、日本女子大学、早
稲田大学ほか多くの学校に終生支援を続けていた
渋沢の公生涯の重要な部分の一つが人づくりだったといえる

官立でスタートした帝国大学に比べて、一橋大学は苦節の歴史を辿ってしまった
しかし渋沢は、そのことを逆に解釈して、商業教育を「陽炎(かげろう)の教育と称して誇りとしたのだ
陽炎という言葉は、1914年の名古屋商業学校創立30年記念式典で市邨芳樹校長が発したものだ
渋沢はこれを受けて、
「商業教育のみは天降りではなく陽炎のように下から発達したものである。天から降った雨ではなく地から生じた霧の如きものであると云われたが、是は事実であります」
と述べている

申酉事件史をまとめた小島慶三は、次のように述べている
「渋沢翁が最初から最後まで一貫して商業教育立国の志を貫き、しかも自らの主張の責任を果たしたということ、一橋が今日あるのは、まことにこのような有言実行の先駆者のお蔭であることを、我々は忘れてはならない」
「いま道義を忘れた経済大国をつくり上げ、国際摩擦の嵐の中に立っている私達は、もう一度翁の唱える商業道徳を想起し、自らを教育し直す必要があるのではないか」

2010年10月22日金曜日

「社会企業」と「働く」ということ

この団体はChoice!っていう名前だけど、やってることは社会企業のリサーチプロジェクトで、正直コンセプトが伝わりずらいものであることは覚悟の上。。
一番最初にメンバーを集めてミーテをした時、そもそもCSRや社会起業家両方扱う意味はあるのか、結局社会企業について学ぶことが何につながるのか、メンバーといっしょに考えたのは懐かしい思い出です。

私たちのサークルの最終的な目標地点とそこまでのプロセスって、

前提:
①企業が社会的な責任を問われ、また社会課題の解決をビジネスとする社会起業家が世の中でものすごい影響力を持ち始めているのにも関わらず、特に一橋において社会性とビジネスを結びつけて考える風潮が弱い。
なんだかんだ優秀な学生も多くいるにも関わらず、彼らがそういったことにまだ興味関心が向いていない。
⇒一橋って将来的に社会企業の影響力が増す中で、取り残されてしまうよ!
②そのうえ、彼らはキャリア選択の軸に関して、知名度、収入、安定といったものに凝り固まっている傾向がある。そこに問題意識をもつ場すらあまりない。

したがって、

1.社会性とビジネスの結びつけたビジョンの提示、つまり社会課題の解決をビジネスの手法を用いて行う、社会企業とはなにかを知ってもらうための場づくりをする
2.1の場を、働く、ということに結び付けて考えることで、彼ら自身がその問題を自分自身に結び付けて考えられるようにする

その結果として最終的に以下の内容を達成したい。

★参加してくれた学生自身のキャリア選択を豊かにしたい
また、全体的なビジョンとしてここまでは明確化できていませんが、
★将来的な選択肢として学生が社会企業に興味を持ってくれるきっかけづくりをしたい



社会起業家になろうよ、とか、押し付けではなくて、社会性とビジネスの結びつきという選択肢すらもてていない現状の中で、
社会課題の解決をビジネスの手法を用いて行う社会企業というものを示すことで、選択肢を豊かにしたい、ということです。